Μετάφραση του βιβλίου του Γέροντος Θεόκλητου Διονυσιάτη, Μεταξύ ουρανού και γης.
Μετάφραση: Αρχιερέας Ιωάννης Ναγκαγιά Φουο
Πρόλογος ― Με την ευκαιρία της επανέκδοσης
Χάρη στην εύστοχη απόφαση του Σεραφείμ Τσουτσίναγκ, Αρχιεπισκόπου Σεντάι και Βοηθού Επισκόπου Τόκιο, το βιβλίο «Μεταξύ Ουρανού και Γης», το οποίο μετέφρασα και εξέδωσα με δικά μου έξοδα το 1990, πρόκειται να επανεκδοθεί μετά από 30 χρόνια. Εάν το βιβλίο αυτό τραβήξει την προσοχή όσο το δυνατόν περισσότερων ανθρώπων, και ιδίως των Ορθόδοξων, αυτό θα αποτελέσει μεγάλη χαρά για μένα ως μεταφραστή, και θα ήθελα να εκφράσω την ευγνωμοσύνη μου πρώτα απ’ όλα στον Αρχιεπίσκοπο.
Προσπάθησα να κάνω μερικές διορθώσεις στην πρώτη έκδοση, ώστε να γίνει όσο το δυνατόν πιο ευανάγνωστη, αλλά πιθανότατα θα υπάρχουν ακόμη τυπογραφικά λάθη και παραλείψεις. Το πρωτότυπο είναι γραμμένο στα ελληνικά και έχει ως θέμα τη μοναστική ζωή στο Άγιο Όρος, οπότε είναι δυσνόητο και χρησιμοποιεί πολλούς ορθόδοξους όρους. Επιπλέον, δεν παύω να ανησυχώ μήπως υπάρχουν σημεία όπου, λόγω της ανεπάρκειας του μεταφραστή, δεν έχει μεταδοθεί η πραγματική έννοια.
序文 ― 再版にあたり
この度、仙台の大主教及び東京の副主教セラフィム辻永座下のご英断により、1990年に翻訳して自費出版した「天と地の間」が 30年ぶりに再版される運びとなり、少しでも多くの人々、特に正教徒の目にとまるなら、それは訳者としての大きな喜びであり、誰よりもまず大主教座下に謝意を表します。
初版に多少の訂正を加え、できるだけ読みやすくしたつもりですが、多分に誤字・脱字などもあるものと思います。原本はアトスの修道をテーマとしたギリシャ語なので難解で正教用語が多用されています。さらに訳者の力不足から真意が伝えられていない箇所もあるかと心配は尽きません。しかし、聖書にも次の言葉があるのを知って多少の安堵を覚えます。シラフの子イイススの知恵書(序の18 : 20)に「我々は、懸命に努力したのであるが、上手に翻訳されていない語句もあると思われるので、そのような個所についてはどうかお許し願いたい・・・(シラ、序の26)いったん翻訳されると、原著に表現されているものと少なからず相違してくるのである」。
私たちは 21世紀のデジタル時代にいるので、何かを理解しようとすれば、様々な手段で対象の認識へ近づくことができます。正教の真髄に触れていただきたいという思いで、悔恨の情を抱えながら拙い翻訳の再版に応諾しました。
祈りと悔改が信仰生活の中心である正教にあって、アトスという修道半島はまさに不断の祈りが修練されている唯一の場所です。1000年以上の女人禁制と祈りの修行を頑なに続けるアトス、正教会でも「特別な地域=生神女の園」と認識されるアトスについて今では多くの人々の知るところとなっています。
この書は正教会の信者あるいは正教に関心を持つ読者の手に渡ると想定して短い叙文を書かせて頂きます。
修道者や修道院に憧れる人々が正教会だけではなく世の中に常に一定数います。そのような人々は何らかの方法で修道に関する情報を持っているだけでなく、福音書からも多く学び、ご存知だと思いますが、福音書から修道を志す人に向けられていると言われる箇所を引用します。「弟子たちは言った、『もし妻に対する夫の立場がそうだとすれば、結婚しない方がましです』。するとイイススは彼らに言われた、『その言葉を受けいれることができるのはすべての人ではなく、ただそれを授けられている人々だけである。というのは、母の胎内から独身者に生れついているものがあり、また他から独身者にされたものもあり、また天国のために、みずから進んで独身者となったものもある。この言葉を受けられる者は、受けいれるがよい』」(マトフェイ 19 : 10~12)。ここで述べている「他から独身者にされたもの」ですが、これは他の人から修道の話を聞き、あるいは諭されて修道の道に進む人を言います。最も尊いのは「みずから進んで独身者となったもの」だと言われています。聖ニコライ・カサトキン大主教は独身者を「閹者えんしゃ」と訳しています。正教の教えは観念的な神学論ではありません。修道とは人の生活全般に行われる言動と霊たましいの生活であって、それは決して修道者だけのものでもなく、また言動だけの実践でもありません。福音を道標とした心からハリストスを信じる者の天国への道です。
修道とは元来ギリシャ語のモナヒズモスから出ていて、その原義は「神に在って単独で生活する」を意味します。ただ長い歴史を経た現在では単独での修道が様々な理由から危険であるとされたため教会は修行形態としての隠遁を許可していません。例外はありますが、一般には共住修道院で修道生活を営みます。日本語の修道という語も「道を修める」という素晴らしい訳語だと思います。
アトスは女人禁制の地だけでなく、そこに住み修行する修道者は宣誓で「童貞、清貧、服従」を神に誓い剪髪式を行います。単純に修道者の修行に障害となりうる女性、金品などを可能な限りなくし、修道院の決まりを守り院長や長老に服従した生活をします。すべては真の謙遜を獲得するためで、福音書には「同じように、若い人たちよ。長老たちに従いなさい。また、みな互に謙遜を身につけなさい。神は高ぶる者をしりぞけ、へりくだる者に恵みを賜うからである」(ペトル前 5 : 5)とあるように、最終的に救いに与るための神の恩寵を獲得する手段と条件です。
世俗では実行不可能と思えるハリストスの教えを愚直にまで守り通すために存在する環境がアトスという秘境の地です。一例を挙げると、福音書には「だれでも、情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである。もしあなたの右の目が罪を犯させるなら、それを抜き出して捨てなさい。五体の一部を失っても、全身が地獄に投げ入れられない方が、あなたにとって益である。もしあなたの右の手が罪を犯させるなら、それを切って捨てなさい。五体の一部を失っても、全身が地獄に落ち込まない方が、あなたにとって益である。」(マトフェイ 5 : 28~30)との誡めがありますが、これを死守する情熱は厚い信仰が支えとなって行われる長期の斎や不断の祈りによってしか達成できないでしょう。一言で言うと、修道とはハリストスの誡めを守って歩む天への道です。誰もが持つ人間としての弱さをなくするため、霊体的に強くなるまで修行するのです。それは一般に考えられているように、決して「肉体と闘っている」のではなく、南国でしか育たない植物も北国の温室なら生長し実をつけるのに似ているかもしれません。また列聖された修道士の存在を「земной ангел и небесный человек」(地上の天使と天上の人)と呼びますが、まさに修道の鏡となった人たちです。
人間がいるところには必ず何らかのルールがありますが、修道院に関して次のような表現があります。それは「В чужой монастырь со своим уставом не ходят」(他の修道院に自分の修道院の規則を持ち込まない=郷に入っては郷に従え)ですが、それぞれの修道院に自前の修行形態や特別な規則があることを示唆する言葉です。俯瞰的に正教修道を見ると一つの共通した形態と伝統、その理念の実践が見えます。まさに正教のオイコノミアを柔軟に蓄えているのも正教の修道制だと言えます。
画像3 - 天と地の間ロシア語で「ドゥホヴニク духовник」という語がありますが、普通は「痛悔神父とか長老」と訳されているようです。しかしこれは一部間違いです。まず「ドゥホヴニク」は神品職だけに限られません。稀な現象ですがロシアやギリシャでは霊的に長けている信者がこのように呼ばれることがあり、年齢も関係ありません。言うなら「適切な霊的アドバイスのできる正教徒」です。霊的な人とは本来正教徒のあるべき姿で、簡単に言うと「福音書の誡めに基づいて生活する人」で、これは決して外面的な容姿とか、客観的な生活態度ではありません。それは目に見えない心の状態、たましいの状態で、福音書の誡めに沿った神しん゜の状態を属神性(霊性)と言います。聖使徒パウェルが「神゜を消すなかれ」と言うのは、私たちは「神゜と火」によって洗礼を受けたのですから、神゜も火も消してはならないと諭しているのです。この霊性は救いの条件で、それは火のように近くの者にも移り点火させます。人は一人では救われません。神と隣人がいて救いは可能になります。残念ながら日本にはドゥホヴニクはおりません。この書がその代わりになって皆様に何らかの知恵を与えることを願っています。
また誡めにはどんなものがあるか、との質問をよく耳にします。神の誡めとはモイセイの十戒や真福九端(山上の垂訓)だけではありません。誡めとは聖書の中で読者に向けて命令形で書かれている文言を言います。また誡めは神の命令ではなく、それは母が子に与えるアドバイスのようなもので、神は決して人の自由を侵しません。どうかこの書を読まれて、修道への憧れや想像を掻き立てるのではなく、正教徒として福音を喜ばしく受け入れて実践し、実を結ぶ霊的な生活の一助になるよう願うものです。
最後に、この出版のために編纂など多方面に尽力されたクリメント児玉長司祭に謝意を表します。
長司祭 イオアン長屋房夫 2020年 12月
